非日常のインプット

 

*7/20 AM6:20

いま、わたしは夜行バスに揺られている。

 

夜行バスに乗るのは久しぶりだったが、すぐに感覚を思い出した。3列シートの一番後ろの窓側の席を死守。座席指定ではなかったため、それだけでちょっとうれしい。

 

コンセントもあるし、足を伸ばせるスペースもある。ましてや椅子にクッションまでついている。知らず知らずのうちに、夜行バスはどんどん快適になっていく。

 

みんな、どこへ行くのだろう。

もうすでに下車した人もいるし、わたしと同じように未だ目的地までの間を過ごす人もいる。夜行バスはなんだか不思議だ。もうすぐで目的地に着く。お腹が空いた。着いたらすぐにご飯を食べようかな。外が晴れていてよかった。

 

 

*7/24 AM5:42

そして再び夜行バスに揺られている。変わらず最後列の窓側の席。自然と顔がほころぶ。

 

たのしい旅行だった。

本当は旅路の途中で書きたかったが、書く暇がないほどたのしんだ。それだけで十分じゃないかな。

 

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ちょっと写真を挟んでみる。旅してる感出ない?気のせいかな?

 

車のナンバープレートの県名がその土地の名前になってたり、方言を話す人と出会ったり、他県に来たと感じる瞬間はいっぱいあるけど、その中でも個人的にすきな瞬間は《◯◯まで何キロ》っていう道路標識。ああ、ここまで来たんだなってわくわくする。

 

余すことなく、たのしんだなあ。

 

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ほんっとうになんでもない写真なんだけど(ローソンのカフェラテのメガサイズがどんだけでかいかの比較写真)、非日常の中に日常を感じられるし、これを撮ったときのなんでもない会話とか思い出される。写真がすきになったのは最近。

 

 

わたしは何者でもないし、やらなきゃいけないこと放っぽり出して来た感が否めないけど、でもそれでもこの時間は必要だった。そう思ってる。魂を解放する時間がないと疲れちゃうからさ。だから何も考えず、思いっきりたのしんだ。そんな日があってもいいよね。たのしかった思い出さえあれば、また頑張っていけるよ。

 

 

帰りの夜行バスで、それに乗るお客さんがいるバス停に着いたときの話。わたしはバスの中から寝ぼけ眼で外を見ていたんだけど、そのお客さんはカップルで、乗るまでに2人にしかわからない会話をしていて。いよいよバスに乗り込むとき、バスに乗る彼氏が見送る彼女の手をぎゅっと引き寄せたの。やさしさの中にちょっとぶっきらぼうさもあって。その感じが最高にドラマ。

 

そのあともバスの中と外で寂しさを共有しあっていて、なんだかエモい気持ちになりました(語彙力)。バスの中からガン見してごめんね、気にならないよう努めたつもりだけれど。

 

 

バスが目的地に着くまで、もうすこし。

またこれからいつもの場所で日常がはじまる。心はすっきりしている、よ。(^_^)

 

 

『1ミリの後悔もない、はずがない』を読んだ

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『1ミリの後悔もない、はずがない』(一木けい / 新潮社)を読みました。

 

 

誰しもが抱えている、《あのときこうしていたら》という後悔。その一つの判断があったからこそ、今現在のわたしがいる。それは分かっているのだけど、もし、仮に別の判断をしていたとしたら。何か、変わっていたのだろうかとふと考えてしまう。

 

わたしは《たられば》が嫌いだ。

 

そう思わなければ、気を抜くとついついたらればありきで物事を考えてしまうから。自分で決めたことくらい、自分で責任をとりたい。

 

 

そんな決意をいつからか固めていたのに、容赦なく突き刺してくる、言葉の数々。後悔がブワッと呼び起こされる、不思議な感覚。久しぶりに味わいました。いつも本を読むペースは速いのだけど、どうしても言葉ひとつ、見落としたくなくて時間がかかりました。その分、揺さぶられた感情は膨大。

 

やっぱりどんなに考えてても、後悔って消えないんですよね。ふとした時に絶対浮かぶ。それを肯定も否定もしない。それがこの本の醍醐味であるように思えました。

 

きっとみんな、考えて考えて考え抜いて、その結果を受け入れてるんだろうなあ。それは大人、子供に関わらず。

 

ああ、だめだ。傷口を開かれる。

 

 

何度も何度も今のわたしにとって必要な言葉が並べてあって、鳥肌が立ったり、涙が出てきたりした。うーん、なんだろうこの感覚。

 

個人的に響いたのは、p.104です。

 

絶望には二種類ある。何かをうしなう絶望と、何かを得られない絶望。

私の絶望はいつも後者で、手に入らないものを渇望するのは、本当に屈辱的なことだと思っていた。

(中略)

何かを得られない絶望の方が、断然マシだ。すでにあるものをうしなう痛みよりは。

うしなうのは怖い。自分の平和な今が、一瞬にして変わってしまうことだから。

 

 

まさにこの通りだと。ここまで自分の根底にある意思を具現化されたのは初めてだったので衝撃的でした。

 

自分のメモのために書きますけど、p.217-8もすきだった。それまでどういう意味なのかわからなかったことも、成長して《ああ、そういうことだったのね》と気づく瞬間がすきです。

 

 

良い時間を過ごしました。

読了したあとは放心状態で動けなかったけど。でもそれは本から得られた結果でもあるから、心地よいつらさですね。できることなら後悔せずに生きたい… けど無理かなぁ…

 

 

【恋は雨上がりのように】を観た

 

6/16 Sat.

 

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恋は雨上がりのように、を観てきました。

ネタバレあります。

 

公式サイト : http://koiame-movie.com/sp/#/boards/koiame

 

 

この作品は漫画→アニメ→実写映画という流れでメディア化が進んだのだけど、わたしはアニメを観ていて。アニメは全体的にキラキラしてて、その要素の一つに音楽が関係してるのかなと(主題歌はCHiCO with HoneyWorksとAimerだった)。

 

でも映画は最初から裏切られた。

あきら(小松菜奈)の全速力で駆け巡る疾走感を表すために冒頭はポルカドットスティングレイのアップテンポな曲だし、主題歌はフロントメモリーだし、神聖かまってちゃんだし、忘れらんねえよだし。「そっか、映画では疾走感をテーマにしてるんだな」って音楽からも伝わってきた。

 

 

あきらは17歳の女子高生、あきらが働くファミレス店長の近藤(大泉洋)は45歳。そんな2人の成長物語だと思うのです。ただの恋愛映画ではなくって。

 

あきらは陸上という大事な夢を手放すことになってしまって、そんなときに近藤に出会ったものだから恋愛に一筋になる。一直線というのは美しくて、でも時に暴力で。以前のわたしだったらきっとあきら側の意見に偏って観ていたんだろうけど、今のわたしは近藤側の意見に偏って観てしまった。いや、別にわたしにそういう経験があるわけじゃないけど(笑)、でもだからこそ近藤は大人だなぁと思うわけです。

 

 

「人を好きになるのに理由は必要ですか」

近藤と一緒に車に乗れてることに対してうれしい気持ちを抑えながら、また返答しにくい言葉を…って思うんだけど、

 

「僕と橘さんだと必要だと思うよ」

って優しく諭す近藤。人生の先輩として、年の功からそう言えるのかもしれないけど、上から否定するわけではなくてあくまで同じ目線に立って伝えようとしてるのかがわかる。思えば、あきらと近藤は同じ目線の高さに立って話すシーンが多かった気がする。気のせいかな。

 

この作品を通して、近藤はずっとあきらの想いを全面否定するわけでも全面肯定するわけでもないんですよね。人によってはどっちかに頼るもんだと思うんですが。だからこそ全面否定も肯定もしない近藤をすきになったあきらの理由が少しわかる気がして。

 

ラストまで近藤は否定しないんですよね、あきらの想いに。それは近藤自身の持つ性格なのかもしれないけど、そこが魅力的なわけで。あきらからすれば《大人》になるわけです。

 

でも、それだけじゃなくって。

まだ20代に足をかけたくらいのわたしですが、微力ながら大人はそうじゃないんだと思うようになったんです。子供だった頃のわたしは大人はかっこよくて、何でも出来て、クールで。そんなイメージを自分の意見として持っていた。だけど、成人して周りを見渡すと「あの頃思い描いていた大人になりきれていないな」と思うことが増えて。小学生からすれば中学生は《大人》だと思うし、中学生からすれば高校生は《大人》だと思うのと一緒で、そんな目線で見がちだけど実はそうじゃないんだろうなって。

 

だから、《あきらから見る近藤》とは別に《ちひろ(戸次重幸)から見る近藤》を描かれてることに大きな意味があって。

 

あきらとデートのひとつにカフェでお茶をするシーンがあるんですが、2人が座るテーブルの周りには若い女性2人組ばかり。でも、ちひろとサシ呑みをする2人の周りは若い男女のグループばかりで、そこが対照的だなと思うわけですが、その様子を見渡しながら近藤は「彼らから見たら俺らは《おじさん》なんだろうなぁ」と呟くわけで。

 

おそらくずっと引っかかっていたんだろうちひろは近藤に向かって「俺たちは《大人》じゃない。俺たちは《同級生》だ」って言う。そこがとてつもない魅力的なセリフだと思って。そっか、ここの2人の間に《大人》という要素は必要ないというか、存在していなくて、ずっと《同級生》の延長線上なんだということに気づくんですよね。そして、そう言える存在はかけがえのない存在なんだろうなと思うわけで。

 

 

あとね、あえて言わせてもらいたいのが、実写化《なのに》再現度が高いということ。あえて《なのに》って言葉をつけたけど、監督のインタビューかなにかで、「原作の実写化というのは、もうすでにファンがいるわけで、セリフのひとつ・シーンの細かな演出ひとつにとってもこだわり抜かなければしてはならない」といった旨のこだわりを持っている方で、本当に細かなところまで原作そのままなんですよね。キャスティングもそうなんですが、近藤を演じた洋ちゃんからも「ここまで一緒じゃなくて良くない?と思うほど、セリフの言い回しや語尾を変えることも許されなかった」と言ってたのでこだわりは尋常じゃないほどだったんじゃないかな。だからこそ実写化でも安心して観れたというか。

 

 

アニメの7話(あきらが風邪をひいた近藤の家に見舞いに訪ねるシーン)がものすごくすきなんですけど、そこが完全再現されてて本当にうれしくて。

 

それまで近藤はあきらと接するたびに「世間体」だったり「援助交際」だったりを気にしてたけど、このときの近藤は風邪をひいていたし、台風のような雨風の中、あきらは家まで来たわけで、それらの要素がなかったらきっと家の中に招き入れることはなかったと思うの。それは《大人》としてもだし、《あきら》のため、そして《自分》のためにも。でもそのハードルを優に超える要素が重なって、そのシーンが生まれたんじゃないかなって。

 

 

ここで近藤は自分の想いをあきらに伝えるんだけど、最初はきっと《大人》としての近藤の気持ちで。でも、徐々に言葉が変化していくんですよね。お互いに「素敵」という言葉で表現し合うのが美しくて美しくて。余談ですが、洋ちゃんの主演作の【駆込み女と駆出し男】でも「素敵」という言葉がキーワードで、学問を学べる状況下にいなかったじょご(戸田恵梨香)に「素敵とは、素晴らしくて敵わないことを言うんだ」と信次郎(大泉洋)は教え続けるんですね。そこのシーンと重なって見えちゃって。

 

 

お互いに思っていることを吐き出すシーンは、あきらの目線に立てば、あきらの店長に対する想いは嘘偽りなくて、それを受け取ってもらえない返答は聴きたくないわけで。そりゃ泣いちゃうよね。しぼり出す「迷惑ですか…?」の声が胸を締め付けた。それを受けて、「迷惑なんかじゃない。むしろ、感謝してるんだ」と言う近藤の想いに嘘はなくて。あぁ、だからあきらは近藤をすきになったんだし、あきらは近藤のような素敵な人と出会えてよかったねって思える。

 

きっとわたしがあきらと同じ歳でこの映画を観てたら、近藤の言う台詞に疑問符をつけていただろう。でも、彼の言う台詞の本質が少しわかる今のわたしは、近藤がいかに真摯にあきらと向き合っているかがわかるんですよね。あぁ、なにこれ、もう切ない…

 

そしてあきらが近藤に抱きつくシーンは、アニメだったら近藤があきらを抱きしめるんですよね。そこがなんとも言えない(叫びたい)気持ちになるので、もしよろしければ、是非観て(圧力)。

 

それに加えてもう一つ。

「この感情を恋と呼ぶのはあまりにも軽薄だ」

がどこで使われるか。アニメでは近藤があきらを抱きしめるシーンで近藤の胸のうちとして語られるんですが、映画では彼の小説として使用されていて。やっぱりいい台詞だ。

 

 

台詞といえば、近藤が話す言葉に重みを感じるんですよね。

 

「そうしたいと決めたのなら、いい。前に進めるから。でももし、諦めだとしたら、立ち止まってしまうんじゃないかな」

 

あきらに向けて言った言葉だけど、それはきっと自分にも言い聞かせた言葉。ずっと「中途半端」だと自分のことを言うけど、一直線に進める人なんているのかなと思うんです。また奮い立たせたい人が目の前にいて、その人に向けながら掛けた言葉が結果的に自分も奮い立たせていたということなんだろうけど。なんかズシっときました。

 

 

それとちひろと小説について話すシーン。

 

「中途半端で、諦めきれてないだけなんだよ」と語る近藤に対して

 

「それは《執着》というんだ。そう言ったほうが聴こえがいいだろう?」

 

と答えるちひろがすごく良くて。小説と結婚したというけど、結婚ってゴールじゃなくてそこからがスタートだから、「俺も執着してるからなぁ」と本を見ながら話すところとか良すぎてね。言葉の力がすごいな。

 

 

ラストもどう描くのか気になってたんですけど、ものすごく美しかった。嬉しいことがあったら報告したい相手って限られるじゃないですか。偶然会ったとはいえ、これまではあきらが一方的にぐいぐい行くしかなかった状況も、近藤にとって嬉しかったことを近藤の口から話してくれる。あきらにとってこれほどうれしいことってないと思うんです。だから最後のあの言葉に繋がるんだろうし。最後の最後まであきらの想いが否定されずに進んでよかった。

 

 

 

ここからは余談です。

 

 

アニメのときも思いましたが、あきらの色っぽいシーンがいくつか出てくるたびにヒヤヒヤする自分がいて。何ですか、あの部屋着。何ですか、あの哀愁漂う感じ。小松菜奈ちゃんの持つ美しさに触れていいんですか。罪悪感すら感じるぞ…?(謎の親目線)

 

 

そして、近藤のひどい言われよう(笑)。くさいだの、おっさんだの… 可哀想すぎる… 大丈夫だよ、店長… 十分素敵だよ…

 

 

近藤が息子を連れて靴屋さんに行ったり、海で走るあきらと息子を遠くから眺めるシーン。パパ感がありすぎてもうほんとしんどかった…(語彙力)すっごいパパ… あたたかい眼差しが最高すぎるよ…

 

 

そしてなんと言っても近藤とちひろのシーンね。自然体すぎて、洋ちゃんとシゲさんの2人が呑んでるところを映画館のスクリーンを通して見させてもらえるとかありがたいの極みですよね…? そんな世界が来るなんて誰が言いました…?

 

 

お気づきかと思いますが、わたしは洋ちゃんがだいすきなので贔屓目で見てしまうんですけど、この作品、夢が溜まりすぎてるんだと思うんです。詰め込みすぎていいんですか…?って思うほど入り込んでる。タバコを吸うところとか、風邪で寝込んでる姿。普段、見れないじゃないですか。そういう、ラフっぽさだったりに触れてくれてほんっっっとうにありがとうとしかお礼を言えない… タバコを吸う手が色っぽい…

 

手が色っぽいと言えば、小説を書くシーンね。聴くところによると、あの小説を書いてるの、洋ちゃん本人らしくて。洋ちゃんの字って達筆で、字を書く手をみるだけの時間が与えられてるとか…(泣)しかもインタビューで「字を書くところがスクリーンに映るということで、字の書き順とか必死に見直しましたよ。そりゃあ「あ!あいつ書き順違ってやんの!」とか思われたくないじゃないですか!必死で見直しましたよ!」っていう洋ちゃんの可愛さよ… なにそれ… そのシーンを是非メイキングに落とし込んでください…(土下座)

 

それに加えてシゲさんのお料理するシーンも素晴らしい… 慣れた手つきで卵かき混ぜてる… わたしの分も作ってほしいだなんてそんな図々しいこと言えるわけないけどしんどい… キッチンに立ってる姿を見た瞬間、叫びたくなったけど必死で抑えたよう… 料理できる男性って素晴らしいね…

 

 

 

パンフレットもお洒落でした。

全体的に美しい世界観そのままに表現されていて、観終わった先もずっと一緒に進んでいけるように思えました。良い作品でした。

 

 

 

【万引き家族】を観た

 

6/14 Thu.

 

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万引き家族】を観てきた。

ネタバレあります。

 

公式サイト: http://gaga.ne.jp/manbiki-kazoku/

 

 

まず簡単にまとめる。

 

家族構成は、

父、柴田治(リリー・フランキー

母、信代(安藤サクラ

祖母、初枝(樹木希林

長女、亜紀(松岡茉優

長男、将太(城桧吏)

 

次女、りん(佐々木みゆ)

 

 

治と将太の見事な連携プレーでスーパーから万引きを行うところから映画ははじまる。信代も万引きをしてるし、亜紀は《さやか》という源氏名を名乗りながら風俗嬢(女子高生の服を着てミラーガラス越しに接客する)をしてるし、といったようにみんな犯罪に手を染めて、年金受給者である初枝とともに狭い平屋で暮らすのだった。

 

そんなある日、コロッケを頬張りながら家に帰る途中、治と将太はアパートの片隅で震える少女、ゆりに出会う。あまりの寒さに見兼ねた治は家に連れて帰り、コロッケを食べさせる。そして帰そうと治と信代は元のアパートを訪ねるが、「あんな子供、産みたくて産んだわけじゃない!」と叫ぶ両親の声を聴いてまた平屋に連れて帰る。

 

そんなある日、ゆりに捜索願いを出されたことをテレビのニュースで知った一家は(ここで少女の名前が本当はゆりではなく、じゅりであることを知る)、《りん》として少女を一家の一員として迎え入れることになる。ここからが物語のスタート。

 

 

映画というよりもドキュメンタリーを見ているような感覚が抜けなくて。そう思わせる要素としてはBGMがほとんどないんですよね。生活音だけというか。何かが起こるときにしか、映画としての音楽が鳴らなくて。しかもその音楽がまた素晴らしくて。音楽は誰がしてるんだろうって思って、最後のクレジットロールをみて納得。細野晴臣さん、流石。映画を観終わったあと、いかにこの映画における音楽が素晴らしかったのかを観に行った人と熱弁しあいました。

 

いろいろ言いたいことがあるので、ちょっとまとまらない文になるかと思いますが、ご容赦ください。

 

 

①話がリアルすぎる

 

この映画で取り上げているのは、タイトルにもなっているように《万引き》という犯罪。ここで万引きがいかに悪かどうかは置いときます。この映画においてその論点はあまりに愚問すぎるので。

 

手初めに、彼らは本当の家族じゃないんです。《犯罪》がきっかけにつながっているただの集団。映画の最後に明かされますが、治と信代は信代の元夫をともに殺すことで繋がり、信代曰く初枝は「捨ててあったから拾い」、その初枝は初枝の元夫と愛人の元に生まれた孫である亜紀も一緒に連れてき(亜紀の本来の家族は亜紀のことを「海外留学に行っている」から家に居ないと話す描写あり)、パチンコ屋の車で置き去りになってた将太(将太という名は本当は治の本名であり、少年には本当の名前が他にある)を彼ら曰く、保護して《家族》ができた。

 

そしてそこに《りん》という家族が増えた。

 

万引きだけではなく、初枝が亡くなったあと、火葬や葬式をするお金のない一家は家の畳の下に初枝の遺体を埋め死体遺棄をするし、その後も年金の不正受給をするし、本当にさまざまな犯罪に手を染める。

 

これって実際問題、あってるんじゃないかなと思うんです。だからどこかフィクションのように思えないし。

 

でも不思議なのは、《万引きをする=貧しい》という方程式がわたしの中にはあるんですが、初枝が「私の年金をあてにしてるくせに」といった発言があるものの、治と信代は働いてるわけです。ということは年金である、6万円を完全に頼りきってるわけではないのだと(まあ、終盤はお互いに働かなくなりますが)。カップ麺やチョコレートなどの食材やシャンプーなどの日用品は万引きをして手に入れてるのに、コロッケはお金を払って買うんだなという違いがあったり、そのあたりの矛盾が実に興味深いなと。

 

 

 

②俳優の演技が上手すぎる

 

それぞれにそれぞれの過去を背負いながら《家族としての機能》を果たそうとする。そこにぶつける確かな熱量のある俳優を起用してるのがすごい。

 

「俺は万引きしか教えることができなかった」と警察に語る治の気弱さと、それでも息子を純粋に愛したかった愛深さは間違いなくリリー・フランキーが演じるべきだと思わざるを得ない。

 

りんが万引きを一人前にできるようになるまで将太とペアを組ませていたのは父親としての役割を果たそうとしていたんだろうし、将太がりんを邪魔だと言ったとき「りんだって何かやってないとここに居られないだろう」と返答したのもフラフラしているようで周りを見る力があったからだろうし。ちゃんとした父親に、なりたかったんだよね。

 

将太の万引きが失敗して、警察に捕まったとき真っ先に夜逃げをしようとした(未遂で終わるが)ことを警察伝手に聴いた将太から「僕を置いて逃げようとしてたの?」と尋ねられたとき、嘘をつこうと思えばつけるはずなのに「そうだよ」と認めるところは父親としては最低だけど、一人の人間としてはしっかり真実を伝えたから憎めない存在であることがわかる(しかしあくまでこれは赤の他人だから言えることも確か)。そこで将太の治に対する信頼は失ったことは確かだけど、彼は人として将太に最後まで嘘をつきたくなかったのだろうと思う。

 

虐待を受けて、身体的にも精神的にも深い傷を負っているりんに対して、「大好きだと思ったらね、《洋服を買ってあげるよ》って言ったり、叩いたりするんじゃなくて、こうするんだよ。ギューッと抱きしめるんだよ」ってまっすぐの愛を伝え続ける安藤サクラ演じる信代の母親は紛れもなく実の母より母親だった。

 

「産めば母親になるんですか?」と警察に訴えかける目には一つも迷いはなかったし、「子供は親を選べないけど、りんは私たちを選んだんだよ」と初枝に言う信代はうれしさも照れ隠しも含んでて愛おしい立派な母親だった。

 

治も信代も子供たちから《お父さん》《お母さん》と呼ばれることはなかったけど、それでもちゃんと家族だった。「あなたはなんて呼ばれていたの?」と警察に聴かれたときの表情だったり彼女が彼女の全身からしぼり出した答えは安藤サクラだからこそできたのだと思う。あのシーンだけに別途料金を支払いたいくらい。

 

そして信代が《母親として》最後にしたこと。それは刑務所の面会室にわざわざ将太を連れてくるよう、治に指示する。そこで信代は将太を拾ったときのことを語りかける。拾った場所、拾った車の車種、ナンバー。早口ながらも伝え切って、最後に「将太が本気を出せば、本当のお父さんとお母さんに会えるんだよ」と告げる。「お前、それが言いたくて将太を呼び出したのかよ」と困惑する治を片目に置きつつ、「私たちじゃ、だめだったんだよ」と本当は自分も口に出したくないし、思いたくない、そんな言葉を、悲痛の叫びを投げかけるのだった。そこがつらくて、つらくて、ね。

 

 

子役の二人も素晴らしく光ってたし、初枝も亜紀も間違いなく大きな存在感を発揮していた。

 

いろいろなメディアで是枝監督の演技指導の方法は取り上げられていたけど、子役の二人の演技力は本当にすごい。ナチュラルにその役になっている。

 

最初はりんを拒絶していた将太は思春期ならではだし、赤の他人であるはずの二人が徐々に「お兄ちゃん!」「りん!」と慕う間柄になっていく過程も美しかったし、りんを守るために自ら警察に捕まることを決心した将太は立派な《人》になった。

 

「家で勉強できないやつが学校に行くんじゃないの?」と淀みもなく訴えかかるところは胸を締めつけられたし、日常的に万引きをしていた駄菓子屋の店主(柄本明)から「妹には(万引きを)させるなよ」と言われたあとから考え方に変化をうませるのも上手だなとしみじみ思った。

 

少し話は逸れるが、万引きに疑問を抱きはじめた将太が信代に駄菓子屋の店主から言われた一言の真意を尋ねると、「店が潰れなきゃ、いいんじゃないの」という返答を受ける。それが疑問を疑念に変えたし、その後訪ねた駄菓子屋が《忌中》という貼り紙が貼られて店を閉じているところをみて明らかに将太の考えを変えさせたきっかけの一つであっただろう(ここで将太が《忌中》の意味を知らず、違う意味として捉えたはずだけど、その演技も素晴らしかった)。

 

「いいことあったの、おばあちゃんには言うね」という亜紀は甘える対象が一つあるから弱くて脆い立場でありながらも立ち続けていれたんだし、おばあちゃんを亡くしてからの虚無感だったり、ポッカリ空いた喪失感を演じきれたのは松岡茉優だからだと思う。

 

警察から初枝が絶えず、亜紀の実家を訪ねてお金をもらっていた話を聴いて「おばあちゃんは私を大事にしてくれてたんじゃなくて、私の両親からお金をもらえるから一緒に住もうと言ってくれたのかな」と言う悲痛の叫びは苦しかった。それに加えて事件後、最初にあの家に帰ったのは亜紀だったし、その開いた扉から彼女は何を受け取ったのか、あの短い秒数の中でそれを巧みに表現する力があったのは松岡茉優の高い演技力があったからに他ならない。

 

 

この映画を観て、何を感じるかは人それぞれだろうが、わたしは今現在の日本が抱き続けている社会問題を巧みに表現しているなと感じた。

 

それを感じさせるために、きっと高い演技力を持った俳優を起用したんだろうし、素晴らしい音楽技術を持った人に担当させたんだろうし。でもそれだけではなくて、それらの根底にはいかに《自然にみせる》かどうかをこだわり続けた結果なんだろうと思う。

 

事件が起こるところにしか音楽を流さない、それ以外は生活音を起用することだったり、家族で海に行くシーンも、初枝はずっと砂浜からみんなを見るんだけど、海で家族並んではしゃいでいるその姿は間違いなく普通の、偽りのない会話をする家族であったし、平屋の家の汚さだったり物の多さだったりはあまりに自然すぎた。

 

その幾多の要素を踏まえて、《自然さ》を与えようとしたのか、是枝監督のこだわりがうかがえていいなあと思った。

 

 

あと最後に言いたいのはこの映画のキャッチコピーの素晴らしさね。

 

《盗んだのは、絆でした。》

 

 

 

何が幸せなのかどうかを自分で選ぶことがシンプルで難しいのだと痛感させられた120分の世界でした。

 

 

Road to Catharsis Tour 2018 に参戦した

 

6/13 Wed.

 

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RADWIMPS

 Road to Catharsis Tour 2018 @マリンメッセ福岡

 

に参戦した。

ネタバレあります。

 

 

RADWIMPSは紛れもなくヒーロー。

姉の影響で小中学生の頃、ずっと聴いていた。だからこうしてライブに参戦できる環境に身を置けていることに感謝せざるを得ない。わたしに声をかけてくれて本当にありがとう。

 

しかもまさかのアリーナ席。近いのなんの。ブロックの中でも「前に行こう…!」って決めてたので、開場してすぐ前を陣取る(4,5列目)。前にいる高校生くらいのカップルに邪念を抱きつつも(笑)、開演までの時間をたのしむ。

 

ライブに行くたびに会場のBGMが気になるんですが、RADWIMPSって洋楽なんですね。お洒落すぎる。

 

 

定刻を過ぎること、数分。

暗転し、真っ赤なライトがステージを照らす。大きな大歓声と拍手の中、RADWIMPSの登場。

 

ライブに行くたびに思うことなんだけど、姿を肉眼で捉えてはじめて「ああ生きてるんだな」と実感します。スーパースターも同じ人間なんですよね。

 

【ます。】のイントロが聴こえた瞬間、鳥肌が。うわー!超聴いてた!!すげえ!生だよ!!!って感情が高ぶって震える。すっごい手を振って、飛び跳ねたけど。

 

 

一緒に参戦した子も昔っからRADWIMPSがだいすきで、曲のイントロが聴こえると同じタイミングで「え!?」って声を上げて喜べることが喜びをさらに加速させた。この子と一緒に来れてよかったなって何度も思った。

 

 

やっぱり生の【ふたりごと】聴けたのはうれしすぎたな〜〜。昔、ずっと音源聴いてた自分に伝えたい。「生で聴ける日が来るよ」って。信じられないと思うけど。

 

でもずっと音源を聴いてたからか、イントロ聴く前に弾いてる音で次の曲が何かぼんやりとでもわかるもんなんですね。すごい聴いてたんだなと自分でも思ったりして。

 

 

【おしゃかさま】のとき、大サビに行く前にそれぞれの音を聴かせる部分があって。

 

桑ちゃんのギターソロ

武田さんのベースソロ

ドラム(1人ずつ)のソロ

洋次郎のソロ

 

だったんですが、それぞれのソロを誘導する洋次郎の色っぽさと実力を爆発させる桑ちゃん・武田さんの熱量の高さたるや。これがプロか、第一線をいく実力か。もう目を、耳を、心を奪われた時間。はじめての感覚でした。

 

 

【告白】あたりからメインステージから後方のステージに洋次郎が移動して、艶やかに歌い届ける。メインステージと後方ステージって音が反響して歌いにくいはずなのにしっとり歌えるのは流石だ。

 

次の【HINOMARU】に行く前にある話に触れる。最近のニュース。

 

 

洋次郎の言葉で、丁寧に。

「心配してくれてる人がいるみたいで。大丈夫です、元気です。僕らのことを好きでいてくれる人たちは素敵な人ばかりだと改めて実感しました。ありがとうね、元気だよ」

 

「僕はここにいるあなたがわかってくれるのなら、それでいいのだと思っています。声明文は出しましたが、もうそれ以上言うことも伝えることもありません。僕はいろいろな意見があって当たり前だと思っていて。でも、自分の意見を僕の表現した歌に乗せてこれ見よがしに表現されるのは嫌いです。僕の作品を汚されたくないし、その土俵に僕は関係ない」

 

「言いたいやつは勝手に言わせとけと思っていましたが、僕の大事なファンの方からあるメールが来ました。韓国や中国のファンの方です。【洋次郎、親にアジアツアー行くなって言われた。どうしたらいい?】…そうか、もうこれは僕の大事な人を傷つけるところにまで来てるんだなって。それで僕の想いを発表しました。もうこれ以降、この件について僕から話すことはないです」

 

「僕は、僕のだいすきな日本のことを歌うために作りました。そこにそれ以下もそれ以上もありません。自信持って言います。そしてこれからも歌い続けます」

 

 

とても大事に歌う、【HINOMARU】。すごく素敵だった。美しかった。こんなこと言っていいのかわからないけど、間違いなく《日本人》だった。

 

 

それから聴いた【いいんですか】は鳥肌のオンパレードだったし、気づけば2列目にいた。掛け合いをすることで、わたしたちファンはRADWIMPSを求め、RADWIMPSはファンを求め合うという相互関係。これが紡いできた絆にんだろうなと。それがうれしくってね。

 

言葉や想いを言わなきゃ伝わらない、それなら言えばいい。そんな簡単なこと、サラッとやり遂げるのだからスターなんだよね。「お前ら、幸せになれよ!」「愛してるぞ!」ってわたしたちに一瞬の隙を与えずストレートに言う姿が美しかった。

 

 

はじめてRADWIMPSのライブに参戦して。

思った以上に過去の曲をやってくれて、何度も何度もうれしくって動けずにいた。聴いていたときの思い出、想いが走馬灯のように流れて自分の心の奥にズシっと降りてくる。桑ちゃんのグッダグダなMC(笑)も、武田さんのグルメな部分も、洋次郎の艶やかさも、そのすべてがすごくすきだと、だいすきだと改めて感じた。

 

 

 

「今までもこれからも《洋次郎、変わっちゃったな》って言われるかもしれない。でも、僕はそのとき伝えたいことを歌にするんだと思う。僕にはできないことはできる人に任せる。そうじゃないと音楽を楽しむことができない。それしかできないんだから」

 

 

RADWIMPSは本物のスーパースターだと、これまでも、そしてこれからも変わらず君臨し続けるのだ。

 

 

 

*セットリスト

1.AADAAKOODAA

2.One man live

3.ます。

4.ふたりごと

5.遠恋

6.俺色スカイ

7.やどかり

8.揶揄

9.秋祭り

10.スパークル

11.おしゃかさま

12.カタルシス

13.洗脳

14.告白

15.HINOMARU

16.トレモロ

17.いいんですか

18.君と羊と青

 

An1.セプテンバーさん

An2.会心の一撃

 

 

【家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。】を観た

6/1 Fri.

 

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家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。】の試写会が当たったので、観ましたという話。

 

http://tsumafuri.jp/sp/

↑映画の公式HPです。

 

わたしが観に行ったのは試写会で、公開前でしたがもう公開したので(6/9現在)ネタバレを含む感想を書きます。あしからず。

 

 

この映画の大きなテーマは【結婚はゴールではなく、はじまりである】ということ。恋愛の延長線上が結婚だというのなら、恋愛のように楽しいばかりの日々だけでなく、その先の未来をどうするのか、考えたり努力したり… そんな日々が常に待っていることを覚悟しなければいけないんだと思う(注:独身の一意見です)。

 

だからこそ、じゅんさん(安田顕)はちえさん(榮倉奈々)と再婚するときに「結婚して3年経ったら、結婚生活を続けるかどうかを話し合おう」という条件を出したんだろうし、それに対する彼女の答えを聴くのに覚悟が必要だったんだろう。

 

これまでの3年間を評価されることと同じだから。そりゃ不安になりますよね。でもちゃんとお互いに思ってることを話し合うんだ!よし…!って意気込んで家の玄関を開けたら、

 

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(出典:https://filmarks.com/movies/74222

 

これですよ。

そりゃびびりますよね。というか頭真っ白になりますよね。

 

ここからちえの死んだふりが連日続く… (じゅんさんからすれば悪夢のはじまり)

 

 

この映画にはさまざまな夫婦が出てきます。

死んだふりをするちえに困惑するじゅんの仕事仲間の佐野壮馬(大谷亮平)・由美子(野々すみ花)夫妻、上司の蒲原(浅野和之)の家族… 狭い世界ではあるけど、どれもれっきとした【家族】。

 

完璧な家族ってきっとそうたくさんはなくて、良いこともあれば辛いこともある。「お互いに本音で話さなくなったから、何を考えてるのかわからない」(佐野夫妻)・「家族にとって自分はただの金稼ぎで、旅行にさえ連れて行ってもらえない」(蒲原) …夫婦という形には正解も不正解もない。

 

ただ、そんな中にも続く理由はあるわけで。散々家族に対する不満を口にしていた蒲原も「なぜ離婚しないのか?」(じゅん)と問われると「そりゃあ、愛してるからだよ」と照れもせず真っ直ぐに答えた。

 

結果的に別々の道を歩んでいく結論を出した佐野夫婦でさえ、「最後にじっくり話せてよかった」(由美子)「夫婦生活を経て、何も言わなくても伝わることがあることを知った」(壮馬)と話している。

 

それが幸せか不幸かは周りが決めるのではない。本人たちが決めるんだ。

 

佐野夫妻の答えにちえは納得できないようであったし、悲しそうな表情で見届けていたけど、それこそが彼女の【結婚】に対する考えであり、答えにつながる理屈なんだと思う。

 

 

わたしの完全なる個人的な意見であるんですけれども、ちえは死んだふりをすることでじゅんを試していたんだと思う。そりゃはじめて死んだ(ふり)姿をみたらびっくりするし、それ相応の対応をするだろう。でも、それが何度も続くと…?

 

うんざりしたり、呆れたり、怒鳴ったりすることもあるかもしれない。もちろん、じゅんは呆れたし、どうしてこんなことを続けるんだ、もつやめてくれと懇談もした。

 

でも彼は見放すことはしなかった。

呆れつつもその世界に一緒に入っていった。それこそがこの3年間、2人が築いてきた仲なんだ。多く語らない夫婦がいるのなら、こんな夫婦がいてもおかしくない。

 

そうしてくれることをちえは知ってたから、「これが答えだよ」って彼女なりの(普通って何なのか定義がつけられないけど、明らかに変な)やり方で試してたんじゃないかな。

 

死んだふりを続けることで、じゅんさんはもっと素敵な夫さんになったし、ちえさんはもっと愛深い妻さんになった。

 

 

最後のシーン、本当に素敵だったなあ。

(ラスト、大好きすぎるので語りません。映画館で是非!)

 

 

ここからは余談になりますが、ちえは幼いときにお母さんを亡くしてしまった過去から結婚するとき、「わたしより先に死なないで」って約束するのね。その約束って、なんだか素敵だなあって思って。運命だからわかんないんだけど、それって最高のプロポーズじゃないですか。わたしも使いたい…(果たしてそんな日は来るのか)

 

 

あと、完成披露舞台挨拶で安田さんが奥さんに対して

 

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(出典: https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201805160000137.html

 

 

「残されるのは絶対に嫌」

 

って可愛すぎません…? 舞台挨拶で言ったとか愛おしすぎません…? すみません、音声を… ください… (文面だけで愛おしさ爆発しました)

 

 

余談ついでにもうひとつ。

この映画が無事、公開されてほんっとうによかったです。もし、とか、どうだったんだろう、とかそういう余計なことも脳裏をよぎらなかったかと言ったら嘘になるけど。よかったです。

 

 

もう一度観たいので、観に行きます。

散々、好き勝手に書きましたが、何も考えず、観終わったあとにほっこりできる映画です。ぜひに!